夜明けとともに
少し前になるが、吉祥寺シアターで青年団の『日本文学盛衰史』を観てきた。
私の10年前のブログを読めば、そこには青年団公演は観なければいけないという強迫観念で観に行くが必ず寝てしまう、というような不逞の言い草が書き残してあり冷や汗が出るが、今回の作品は前日から遠足が楽しみで寝られない子どものような気持で観劇を待ち望んでいた。10年の間で私が成長したのだろうか、青年団が変わったのだろうか、きっと両方だろう。
開場中のアナウンスで「本日は、日本大学盛衰史にお越しいただき…、あっ、失礼いたしました」というネタがあるのだが、これ本当に間違えてるみたいに聴こえる。たぶん青年団じゃなきゃこんなに見事にだまされないと思う。作品中も時事ネタを満載で行きますよ、というひそやかな、そして決然たる宣言。いや、しびれます。
「内面」を表現できる言葉を創り出そうとした人たちの、さまざまな精神的格闘。書くべきテーマの大きさと武器になる言葉の貧しさの落差に絶望し、命までも落とした人がいて、その人の死に向き合い詩から小説に転向して散文で傑作を書き上げた人がいた。悲喜こもごもの現実を描き出すのに、4つの別の人間の葬式を一幕ずつの舞台にするというのはなんと効果的な戯曲の設定なのだろう。以前平田さんは戯曲の書き方について「状況設定が8割」というようなことを言っていたが、ここに極められている、としかいいようがない。
私が初めて台本らしきものを書いたのは、小学校の頃に書いたパロディー。好きな歴史上の人物同士が会話を交わすのを想像して面白おかしく書いてみたら、けっこう評判が良くて以来台詞を書くことにハマった。日本文学史はごたぶんに漏れず文豪を顔で番付するような楽しみ方をした。そんな私にとって、この作品が面白くないわけがない。ただ今回すごいと思うのは、別にそんな人間じゃなくても十分に楽しめる作品なのだ、これは。
藤村が、鴎外が、漱石が、みんな生死をかけて考えていた「言葉」の問題。
内面を表す言葉を獲得した人間は政府と対峙するようになる。迫りくる大戦の足音を聞きながら、後戻りの出来ない坂道を進んだ人たち。その上にある雲はつかめなかったにせよ、それは彼らにしかできないことだったし、それぞれが苦悩しながらその言葉を使って社会と折り合う方法を見つけていく。
私も見つけたいと切実に思った。
今社会と折り合っていくための言葉を。